村社会、日本。
「真面目」「勤勉」「堅苦しい」「恥の文化」「我慢が美徳」
日本人という国、日本人の性質について語られるとき、往々にしてこれらのワードを目にします。
また、「生きづらい」「生きにくい」「息苦しい」といった題材から日本社会というテーマを考えるときも然りです。
そう語られる現状を「日本」という国に感じたとき、その理由は一体どこにどんな形で存在しているのでしょうか。
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日本人としての生きづらさ
日本が生きづらい国である理由については、ネットや本でも様々なことが語られていますが、その源流を探って突き詰めていくと結局は、日本に古来から存在する特有の村社会という文化にその根本理由が隠されているのではないかと思います。
少々前置きが長くなりますが、それは『日本が生きづらい理由』を本質的な部分から深く理解して頂きたい故ですので、どうぞお付き合い下さればと思います。
さて、日本にはかつて(一部の地域や村では現在も)村八分という風習がありました。
村八分というのは、『村の掟や決まり事を破った村人に対して、火事と葬式以外は手伝わない』というものです。
村八分を受けた村人というのは村の中での完全なのけ者扱いとなり、火事や身内の不幸が起こらない限りは、その他の村人からは一切の関係や援助、手助けを断たれたというのです。
これは一度村八分を受けてしまうと、時間の経過によって解決されるというようなことはなく、その流れは子孫まで継承され続けたといいます。
現代の日本であれば、国自体のインフラや制度が整っていますし、インターネットさえあれば日本全国はもちろん、世界中の人々と繋がって生活することができますから、近隣住民に無視されようが嫌われようが、生きていく分には問題ないという人もいるかも知れません。
しかしかつての時代には現代のような豊かな物質や食料、整ったインフラや制度、インターネットなどという便利なものはもちろんありません。
そんな時代には、村人同士での共同生活という考えが基本であり、それこそ当時の日本人である村人が、村八分を受けることで、村というコミュニティの綱を切り放されるということは死活問題なのです。
例えば当時の日本の農業は稲作が中心で、稲作、農耕を行うにも田んぼだけあってもしょうがないです。水や稲だけあってもしょうがないですし、稲作や農耕に必要なのは田んぼに水路、そしてその整備、確保、管理等行う者が必要です。
これら土地や水路、技術を持った村人各々の人達と共同で行うことで成り立っていたのです。
今でもその社会的構造の本質は変わっていませんが、当時はこれら一連の作業が、1つの村、1つの村人の中で完結されていたわけです。
そのような状況下において他の村人との関係の一切を断たれるということは、食糧や収入を得る農耕活動さえできなくなる事を意味していました。
そこで食えないなら遠くへ移住して一念発起だ!ということも完全に不可能ではなかったのかも知れませんが、先にも述べたように当時はインフラも整っておらず、ただでさえ村ごとの縄張り意識や村人同士での監視が強い当時では、新しい村に移り住もうとしたところで、とても容易にはどこぞの村人かも分からない『他人』を受け入れてもらえるような状況ではないのです。
日本にDNAレベルで刻みこまれた『制裁』に対する恐怖心
村八分という制裁行為は相当に強烈なものだったようで、例えば家事や葬式の手助けをするといってもそれは人としての義理や人情からきた人間味のある動機でなどではなく、例えば火事であれば延焼を防ぐ目的、死人の処理は感染症の拡大防止、あるいは霊的な不吉を避けるため、といったような自分達にも被害が及ばないように「仕方ないからやる」という動機からです。
第二次世界大戦以降、急速に欧米化していく日本文化の中でその村八分という概念は影を潜めていったわけですが、日本人の心の中には、村文化に根差した習慣や思考がDNAレベルで強くこびりついていることは間違いありません。
そういう理由から、日本人というのは周囲や他人から嫌われることを恐れる心がもともと強いのです。
村文化時代の日本人にとって、他人から嫌われることはすなわち『死』『人生の終わり』を意味していたといっても過言ではありません。
よく日本人は決定や意思表明をするとき、「周囲の顔色や空気を十分に伺い、目立つことはせずに、そして無難に足並みを揃えようとする」というようなことが言われますが、日本人が持つルーツを知ればなるほど納得できるという部分も大いにあります。
当時の村八分というのは、掟や決まり事を破ったというほどのものでもなく、「なんとなく気に入らなかったから」とか当時の文化において「ふさわしくない」と判断されたというようなことが理由で受けることが多かったようで、恐らくはその村のボス的存在の人に直接嫌われたりしようものなら、ほとんどの関係のない人達まで自分も一緒に村八分を食らいたくないから自分もイジメに参加しておくというような、現代日本の集団イジメとその構図は何ら変わりありません。
あるいはボス的存在に直接嫌われなくても、ボス的存在の人物に嫌われるように他の村人から情報操作を行った告げ口されてもたまりませんから、結局誰からも嫌われないようにしなければならなかったのでしょう。
例えば欧米人は、神は自分の心に宿っているという考えを持っていますから、決断や判断を行うとき、自分の心の中に問うということを行いますが、日本人の場合は「世間の目」=『神』なのです。
ここに日本という国の生きづらさ、日本人として持っている生きづらい理由が一層近くに見えてきました。
消された日本人の心の本音
個人的な見解ですが、日本の歴史を振り返れば1938年に岡山県で起きた津山30人虐殺事件も、2008年に秋葉原無差別通り魔殺傷事件も犯人がどうにも耐え難い生きづらさというものを心に抱えていたということが間違いなく言えると思います。
それぞれ抱えている悩みや、生まれ育ったバックボーンも違ったでしょうし、それに付随する困難や苦境があったようです。
別に犯人を弁護したくてこのような話をしているのではありません。
津山事件を起こした都井は、当時まぎれもない村八分を受けていたという証言がありますし、秋葉原事件の加藤容疑者も、インターネット上の掲示板内というフィールドであれど、村八分行為と同じことを受けたのではないかと思います。
加藤容疑者は、逮捕後の証言により「現実世界での居所はなかった、本音を言えるのはネットの世界だけだった」と語っており、後に自らが現実世界での居場所がないからと、ネットの世界だけに依存しすぎていたのは誤りだったと語っているそうです。
その心境から、ネット掲示板の中だけが唯一の居場所だと認識していた(その是非について置いておき)加藤容疑者にとって、その世界からのけ者にされるという行為は、かつての日本人が恐れた村八分を受けたときと同等の苦痛や絶望感を彼に抱かせたのではないかと思います。
でなければあのような残虐な事件を起こす動機としては足りないのです。
私はいつもこのような残虐な事件を起こした犯人の生まれ育ったバックボーン、それまでの人生で培ってきた人生観や信念を調べてこう思うのです。
果たして自分がその同じ境遇で生まれ育ったとき、誰しもその犯人が持つ同じ心境に至り、何がしかの事件行動を起こさずに済むことができるのだろうか。
誤解を生みたくないのですが、別に犯人を弁護したいとかそういう気がある訳ではなくて、やはり人間というのは、例えばある人の過ごした環境や見聞きした経験、自身の中での世界観や考えを、他人が完璧に理解するなどということは不可能だと思うということをまずお伝えしたいのです。
あくまで他人が人の心情、ある行動を起こした動機に対する共感、またはそれらに対する理解というのは推測の域を出ないわけです。
例えばただでさえ多くの人が生きづらさを抱えると言われる現代の日本において、不都合が重なりに重なった結果、理性が破壊されてしまうという現象は誰しもに起こりうることなのではないかと思うのです。
高い視点で物事を見ることの重要さ
ほとんどの人は、「表面上に見える現象」「表面上に見える考え」だけを見聞きして人は頭ごなしに批判したり賛成したりします。
確かに論点の対象が凶悪犯罪を起こした犯人の行いに対してであれば、それは決して許されるべきものという訳はありません。
しかしそれを「悪だ」「邪悪だ」とわめくばかりでは、その悪を作り出した社会の病巣を炙り出し、見つけて改善するという生産的な方向に進める行為には至りません。
しかし更に一歩掘り下げた視点、もしくは抽象度をあげた視点で物事を捉え、それを考えてみることができる人は少ないのです。
何かとすぐに問題に仕立て上げ、事情もよく分かっていない人達が日頃の鬱憤をよっぽど晴らしたいのか、ネット炎上に更に寄ってたかって油を注ぎに行く人達が多すぎる現状がそれをよく物語っています。
ここにも日本が生きづらくなる原因を作っている理由が何か隠れていそうな気がします。
ここで抽象度を上げることの意味とその重要性について軽く説明します。
例えばかつて科学の発達していない時代の世界では、「地球は水平で、どこかで落ちる地点がある」と本気で信じられていました。
しかし科学が発達して、宇宙という地球の遥か上空で地球を眺めることができたとき、「地球は球体であった」ということが初めて分かります。
これが人類にとっての「抽象度が上がった瞬間」なのです。
天動説についてもそうです。
かつては地球の周りを太陽が回っているとい天動説が本気で信じられていましたが、科学が発達して太陽系の全貌が明らかになったとき、実は地球が太陽の周りを回っているということが分かったのです。
これが抽象度をあげて物事を捉えることができた瞬間です。
反対にいうと、抽象度の低い視点でしか物事を見れないというのは、「実態を見誤る」ということです。
即ち、ニュースや報道、見聞きしただけの表面上だけに見える抽象度の低い視点で頭ごなしに批判をするというのは、地球を宇宙から眺めたことがないのに、地球は水平であると信じて疑わない状態に近いかもしれないということです。
頭ごなしに批判するばかりの、一段高い視点の抽象度から物事を見れる人がいかに少ないか。
『生きづらさ』の脱出のカギは物事を『全体で捉える』視点
もう少し噛み砕いて説明します。
先ほど挙げた犯罪者についての話に戻します。
一般的に問題行動や事件があったとき、またそれを起こした犯人をみるとき、普通の低い抽象度だけでそれを捉えれば、一見してその事件や犯罪を起こしたその犯人と自分には、全く何の関係もないように思うかも知れません。
しかし一段高い抽象度からその同じ事件を見るとすれば、例えば
というような視点で事件を捉えることができます。続けて
「社会全体の病巣とは、なんなのだろう」
と考えてみて「一般的な理解を遥かに超えるような理不尽で、とても耐え難い運命の悪戯、それを悪戯と呼ぶにはあまりに理不尽極まりないと感じられるほどの生い立ちがあったのかも知れない」
⇒「その犯人はなぜそのような事件を起こしたのだろう、どういう背景があったのだろう、犯人の生い立ち、バックボーンはどんなものだったのだろう、それらが犯行に与えた影響はなんだろう」
⇒「親に酷い仕打ちを受けて育ったというのなら、その親もまた社会の病巣に汚染され、苦しめられていたのかも知れない」
⇒「ともすればその社会の病巣という根を絶たなければ、また同じように加害者と被害者を生み出すだけの無限ループだ」
⇒「ともすればその病巣を作り出した原因と、それを断つ責任は、先代や現代の私達の作り上げてきた社会全体が持つ部分も決して小さくない」
⇒「その社会全体の病巣を作っている原因とはなんなのだろうか」
と考えることができます。
病巣の原因は
「利己的、自己中心的な考えが強い人や、蔓延する他社への理解や思いやりなどの受容のなさ、または本当の社会弱者が社会に這い上がってくることのできるインフラや制度が足りなさが作っているの可能性も否めない」
という考えに至り
⇒「そういう態度があれば改めよう」
⇒「国が社会的弱者を救う意味での制度を作る促しを行えないだろうか」
⇒「だったら参加者を募って自分でNPO団体を立ち上げる手もある」
⇒「そういった活動を行っているNPO団体を探して自分も参加してみよう」
⇒「そういった事実や現状を知ってもらい、自身の活動内容や、日本国、世界が目指す指針をネットで発信していこう」
という結論に至るかも知れません。
といったようなことを「自分の頭で考える」ことが大事なのです。それが抽象度を上げて考えるという実践です。
表面上の事実だけを見て騒ぎ立てるだけの人と、一段高い抽象度から物事を見て、自身の態度や習慣を改めようとする考えに至る。
この両者の違いで前者と後者ではその後周囲にもたらす影響や生産性が明らかに変わってくることは一目瞭然です。
前者と後者、どちらの人達が多い方がより住みやすくて良い環境になると思いますか。
流され、飲み込まれることは洗脳されているのと同じ
テレビ報道などで流れている内容、世間の雰囲気、空気感に無意識で飲み込まれてはいけないのです。
テレビ報道などで流れている内容は、物事の一部分だけを切り取った形で報道をするよう形で情報操作されたものだからです。つまりそれをみたまま鵜呑みにするような習慣は抽象度を下げてしまいます。
テレビは、マスコミや政治家、権力者に都合のいいように国民をコントロールしようとする工夫が随所に盛り込まれています。
結局それが国民を低い抽象度に縛り付け、真に正しいものを見えなくさせているものの1つでもあります。
その大多数の低い抽象度で作られた社会、そしてその低い抽象度の社会や空気を作りあげているのが、紛れもない私達日本人そのものであります。
ここに生きづらさの理由を見出だせるもう1つのヒントがあります。
本来人は誰しも自分に特有の考えや信念をそれぞれに持っています。
生まれた時間や地域、親も違えば、兄弟に親戚、友達にそれらを取り巻く環境のあらゆるものからDNAまで違うので当たり前です。
当たり前なのですが、そんな当たり前のことなのに、自分と違う考えや行動を批判し、排除し、イジメたり仲間外れにしたりと、白か黒かのように絶対的な正しい唯一の答えがあるかのように、そこに縛り付けようとしする同調圧力の大きな空気があるのです。
その縛り付けから逃れようとしたり、適応できない者は『正義のフリをしたマジョリティ』が徹底して排除しようとしたり強制しようとするのです。
人にはそれぞれ自分特有の考えや信念があり、好きなものや嫌いなもの、得意なことや苦手なこともみんな違います。
なのにも関わらず、一般にこれこそが正しいと言わんばかりの唯一絶対的な答えがあるような風潮とそこに対する縛り付け、そこから外れるものは生かしておかない。
少し極端な言い方ですがそれに似た空気感があります。
日本では一般的なことを一般的にできること、所謂ジェネラリストが求められ、またそれでいて当前、絶対、正しいというような風潮があり、そこに上手く適応できないものに対して冷たく、非難の対象としがちです。
しかし先ほど申したように、「人にはそれぞれ自分特有の考えや信念があり、好きなものや嫌いなもの、得意なことや苦手なこともみんな違う」のですから、あらゆるシーンにおいて皆が皆同じレベルで存在することは不可能なはずです。
そんな当たり前の理解が抜けていて、同一ラインに縛り付けようとする圧力、またその同一ラインに足並み揃えなければならないという強い危機感が無駄な焦燥感にも繋がります。
こと日本はやはりその空気が強いという部分に、日本の生きづらさの理由が見えることがお分かり頂けましたでしょうか。
更に言ってみれば、かつての日本人が村八分行為を行っていた時の古臭いメンタリティから脱出していない、そして無意識的にもそれを恐れる恐怖心こそが、人の本音が言えない空気へと縛り付けさせている。正にこれが日本の生きづらい環境を作る決定的な理由だと考えます。
誰しも唯一無二でオリジナルの存在
しかし私達人間というのは、皆が皆1人も漏れなく唯一無二、オリジナルの存在なのです。
それなのにも関わらず、白黒の内「白しか認めない」「白以外は全て黒だ!」と言わんばかりに、さも1つの絶対的な白という正解があって、そこに縛り付けようとする同調圧力が働いているような気がしてなりません。
本来的に個人個人にとって、“型にはまる”必要などないのです。
社会のグローバル化が進むにつれて、以前よりも古い日本的な価値観は薄らいできているとは思いますし、そこに疑問を抱く人達も増えてきてはいるのかなという気がします。
もちろん時代としての進化過程の上での地点なのでしょうがない部分もあります。
しかしこのように言葉にして理解しているのとしていないのとでは生き方にも左右する部分だと感じるので改めて主張しておきたいと思います。
本当は白以外にも、赤も青も黄色も緑もあるのです。
当然考えも多種多様にあっていいですし、批判も反論もあっていいのです。
合う合わないもありますし、合わないものからは遠ざかればいいだけです。
そうではなくて、自分の認める、信じる価値観、考え、態度、習慣などを目の前にしたとき、「それが絶対悪で存在するべきではない」という排他的な圧力こそが、日本人の首を絞めて生きづらさを感じさせている要因なのではないかと思います。
それに加えて、日本特有の村文化的風潮、そしてその空気に絶妙に混じりこんできた欧米的文化。
その束縛と解放の入り混じる中途半端な空気感の中でどっちつかずのフワフワと浮遊した空気感にも、人を戸惑わせて生づらさを感じさせる要因、理由になっている部分もあるのではないかと思います。
日本の古いガチガチな空気で縛り付けようとする空気は依然として存在している一方で、そこへ疑問を持ち「自由だ!」「空気なんて関係ない」「自分がどうしたいのかが重要である」という主張とが入り混じってきて大きく2極化しているのです。
「空気を読め」と言われる、一方では「空気なんか読むな」と言われる。
「好きに生きろ」と言われる一方で、「年齢を考えろ」とも言われる。
「じゃあどっちなんだよ」「どうすりゃいいんだよ」と叫びたくなるような、対極にある双方向の論理に引っ張ろうとする力、この力がまた日人を途方に暮れさせ、生きづらさを感じさせる理由になっているのだと思います。
自由に生きたいという本音は潜在的に強く持っているけど、村八分を恐れる心もDNAレベルで強く刷り込まれている。
日本という国で生活していると、そのいずれの潜在性をも強く誘発されてしまい、自分がどう生きるべきか混乱してしまいやすい環境にあるといえます。
話は少し戻りますが、先にあげた凶悪は犯行事件のようなものを目にしたとき、一歩掘り下げて高い抽象度から見て考えた上での批判や反論と、ただ表面上に見える部分だけを切り取ってきて、頭ごなしに批判ばかりするのとでは訳が違います。
盛り上がっている炎上場面に、何も自分の頭で考えずああだこうだの油を注ぎに行く行為からは何の価値も生まれません。
その起こった現象に、「社会に潜んだ病理」を見出せるほどの高い視点を持った人であれば、頭ごなしの批判などしないはずです。
『社会に潜んだ病理』これが見えなければ、日本が生きづらい真の理由は見えてきません
本音を取り戻す
結局何が言いたいのかと言えば、私達日本人の心の中から奪い取られた、各々の本音を取り返す必要があるということです。
それは同時に、人の本音を認める社会に変えていこうということです。
人は皆、自分の価値観や考え、信念を持っています。これをその人が持つ『ブリーフ』といいます。
それらはどこから作られたのかというと、今まで人生で見聞きしてきた経験の中から、あるいは親や学校の先輩から教えられてきたこと、学校の友人や先輩、職場の上司から教わったものかも知れません。
見聞きした経験や教わったことの中で、あなたが「それは真実だ」と心の中で信じ、受け入れたものがあなたの信念や考えとしてブリーフになっていきます。
それぞれ生きてきた環境や、経験、関わった人物や感じた思いは違いますので、皆が皆、唯一無二のブリーフを持っているのです。
それが他の人と合う部分もあれば合わない部分もある訳で、わりかし合う部分の多い人同士の関係を、一般に「気が合う関係」などといいます。
しかしどんなに気が合う同士の関係でも、ブリーフの完全一致というのはあり得ないわけで、ときにそれは喧嘩や言い合いのような形で衝突を起こす原因にもなり得るのです。
ここでもう一度思い出してほしいのは、日本の古来から続く村文化特有の同調圧力という力は、人それぞれが固有に持つブリーフを、ただ一つの「絶対に正しいかのような1つのブリーフに縛り付けようとする強制力」のようなものを持っています。
それゆ故に本音は違うのに、無理にブリーフ(もどき)を合わせざるを得ないような状況をその人に作り上げます。
自らの心の本音を押さえつけ、正直にならなければ生きづらくなるのは当然です。
同意したくない意見に同意し、内心ではやりたくないことを嫌々やることで過ごす人生になってしまうからです。
しかも本音を抑えて生きるということの最大に厄介な点は、そうやって自分をごまかしごまかしで生きていく内に、その自身へのごまかし力はどんどん強化されていき、自分がやりたいことなど見当もつかないほど自分の心が分からなくなっていくのです。
日本という国は「生きづらい」よりも、「生きづらい」と感じる生き方をする事が正しいかのように思いこまされてしまいやすい国だと思います。
例えば日本には「我慢が美徳」とか「お金の話なんかはしたない」のような風潮があり、無意識でいると、自然と右に倣えで暗黙のルール、いつの間にか特有の風潮に従ってしまっている事に気が付きます。
ですが、釈迦やブッダのように悟りを開いた人でもない限り、誰しも我慢など好きではありませんし、お金の話だって興味のあることです。
日本という国には、そういう本音が言いづらい空気感、風潮があります。
日本人が最も得意とする“空気を読む”文化について
「空気を読め」なんて言われるとあたかも「空気が読めないことが悪い」のように感じてしまいます。
ある面ではそれは正しいかも知れませんが、それが絶対悪という事は無いはずです。
いい意味で空気が読めない人こそ、空気を良くしたり、新たな改革や発明、循環を生み出せることもあります。
「空気を読めないことは悪い」のように、日本には一方行ばかりでものを見る人が多い国という印象は避けられないように思います。
要はそういう頭の固い空気に引っ張られて、自分の好きなものも好きと言えない、嫌いなことを嫌いと言えない空気感が日本には強く蔓延しています。
「我慢が嫌だ」なんて言おうものなら「『みんな』我慢しているのに『あなた1人だけ』わがまま言って」と言われるのがオチです。
『みんなやっている』とか『あなただけやっていない』とか『1人だけ違う』とか言われるとまるで自分が間違っているかのように感じてしまいます。
でも本来それが間違っているなんていう証拠はどこにもないわけですが、これこそが『村八分』でのけ者にされる潜在的恐怖を利用し、『同調圧力』によって人を縛り付け手法なのです。
日本人には『村八分』に対する潜在的恐怖が強いですから、これは日本人をコントロールするには抜群の効果を発揮するわけです。
このように日本国民が潜在的恐怖を持ち、しかも持たせ続けることによって国民をコントロールし続けてきた支配者層の存在も、日本人が持つ『生きづらさ』に繋がっている部分も大いにあるでしょう。
そのおかげで戦後に遂げた飛躍的な経済発展や、震災後の人々が見せた団結力など、世界に大きな感心を与えたという正の側面もあるのでしょう。
そのことについてもまたいつかの記事で深く掘り下げてみたいと思います。
日本の学校はサラリーマン養成型教育制度
最後にこのサラリーマン養成型教育制度というものについてお話したいと思います。
サラリーマン養成型の教育というと少し乱暴な聞こえがすると思いますが、日本の「生きづらさ」というテーマを語る上で特に強調して伝えたいという思いがあり、このような表現を使いました。
著書「五体不満足」の著者で知られる乙武洋匡さんが、「日本の教育はサラリーマン養成所」というタイトルで自身の考えが述べられた記事を目にしたことがあります。
つまり少々乱暴な表現を使えば、日本の教育というのは、従順でコントロールしやすい国民、言われたことを言われたように仕事をこなす『ロボット型社員』を教育する為に編み出されたもの」ということができると思います。
そもそも、かつての日本では働き方として国民が生計を立てるのに個人で商店を営んだり、商売して収入を得る働き方が一般的でした。
しかし今では「働く」というとどこかの会社に就職したり、アルバイトで雇ってもらって働くというイメージが一般的かと思います。
なぜこのような労働スタイルの逆転が起こったのかというと、第二次世界大戦以降に産業革命が起こり高度経済成長期に入った日本には、大量生産や大量消費を中心としたビジネスモデルが非常に盛んになってきました。
そういった社会では、多くの人が団結して黙々と作業をこなすチーム、いわば組織が必要とされました。
それが結果的に圧倒的な大量生産を可能にできる方法だったからです。
そのためには、言われたことを言われたよう組織の力として働いてくれる人達がたくさん必要だったわけです。
それも『みんなと同じように和を乱すことなく、一歩外れることなく従順に』
それが大量生産ビジネス行うにあたって最も効率がいいわけです。
故に日本の教育制度というのは、真面目で優秀なサラリーマン、言い方を変えるとロボット型社員を養成するためのものをが取り入れられてきたのです。
これは軍隊方式のようなもので、海外でも強い軍隊を作るために行う指導や訓練にも非常に近い部分なのです。
この時から日本人にとって、働くというという意義は、「組織のため、会社のため」といった価値観を植え付けられて持つよう矯正されていきました。
そこでは和を乱さず、一歩踏み外さず、人と違う事をせず、足並み揃えてというのが大原則です。
まさに映像などで見る軍隊の行進のシーンを思わせるような印象ですが、本当にそうなのです。
「会社のためだから」「仕事なんだから」と言われると、それが唯一絶対的に正しくて、何も言い返せないような空気感になってしまうのはここに由来しているんではないかと思います。
そういう空気感が当たり前の日本で育ってきた私達ですから、日本人は「勤勉」「真面目」というイメージは間違いない事実です。
しかし逆にいうと、革新的で新しいものは日本では生まれないのですね。
日本は海外のアイディアを真似してものを作らせると、本家以上の性能のものを作るといわれたほどですが、逆に新しいものを生み出すことは苦手なのです。
しかしそれも既に過去の話であって、今では日本の経済成長率も落ち続け、中国や東南アジア系の経済成長が飛躍的に伸びる中で、そのクオリティの差にもほとんど変化もありません。
海外の革新的ベンチャー企業から見習うヒント
話を戻して、例えば現代では会社設立からわずか10数年余りであるにも関わらず、もはや知らない日本人はいないほどの世界企業へと発展を遂げたGoogle社やFacebook社をはじめとした革新的ベンチャー企業が現れる時代です。
そのオフィスはとても自由で、勤務中の休憩やの外出もほぼ自由にできるそうです。
ルールや規則でガチガチに固められ、「決められた時間」「決められた場所」で拘束される日本の企業とはまるで正反対の体裁です。
もうとっくに時代は変わっている
日本のかつての時代に開発されたロボット養成型の教育にならったような、方法論、風潮に支配されて過ごす生活というのはあまりにももったいないことなのです。
日本では起業家も生まれにくいと言われてきましたし、なんなら「就職できない」「していない」ことがさも大問題かのように扱われてしまうこともあります。
そんな空気感の中では、「好きに生きよう」とは中々考え辛くなってしまうのも無理がありませんし、「やっぱり就職しないといけないのかな」なんて考えや不安に揺さぶられたりしてしまいます。
ですがやはり人には適正というものがあって、会社員という生き方なんかは特に向き不向きがハッキリしています。
そんな中で自分の本音を封印して、一般的によしとされる風潮になぞらいながら生きていく、これで生きづらさを感じない訳がないと思います。
人間、嫌々やっていることや、仕方ないからやるのでは自分の本領が発揮できないようになっているのです。
なのにも関わらず、嫌でやっている、しぶしぶやっている中で「生きづらい」「なんだかうまくいかない」と悩むのは当然と言えます。
あなたの今選択している道は、自分で決めたことではあるかも知れません。
しかしそれは例えば親や友人に言われて、もしくはあなたがそういう選択をさせるような空気を作られて選択したのかもしれません。
もっというならば、「あなたにそう選択させられるような空気を作らせることを許す」という選択をしてしまったのかもしれません。
結果的に、形の上ではは「自分で選択」したことになっていますが、それは言い換えると「他人の圧力や要望の上で生きるという選択」をしているとも言えるかもしれません。
しかし今や大量生産や大量消費によるビジネスは既に崩壊しています。
従来のロボット生産型教育にならった風潮、習慣はもう明らかに古く、必要のないものです。
どちらにしても、今後グローバル社会において、従来の古い体質から抜け出せない企業や会社の進展が見込める可能性は低いです。
それに加えて、企業が終身雇用制度を廃止したときから、その決定は「会社があなたの人生の面倒を見ること、人生の保証をすることは出来ません」というメッセージであると解釈できます。
であれば、例えば従来の正社員呪縛、古くてもう必要のない社会ルール、風潮や空気などに自分の人生を搾取支配させることをやめて、自分の本音を汲み取り、本音にしてがって生きていく方向にシフトすることこそが、「生きづらい」人生、日本から脱却する為の最大で最速、永続的な解決策なのではないかと思います。
不安な個人、立ちすくむ国家~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~(経済産業省pdf)
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回の記事では『日本は生きづらい国』と言われる所以、理由を簡単にかつての日本の歴史的背景から現代に至るまでの経緯を交えながら考えてみました。
一口に生きづらいとはいっても、その説明は一筋縄にはいかない部分が多くありますが、その中でも理由の核となる部分に、独自の見解を入れて説明してみました。
『日本は生きづらい」とはよく聞きますが、結局のところ本質を探っていけば、真に生きづらい理由というのは自らの心に原因を作っていることがほとんどです。
例えば「日本には本音を言いにくい空気がある」という説明を前章で話しましたが、結局のところその空気に飲まれて本音を言わないという「選択をしたのは自分の心」だからです。
自分の本音で好きなように生きていないのも、親や友人などの周囲に反対されたり、批判されたり、またはそれを恐れた結果、周囲に受け入れられるよう「無難な生き方を選択したから」なのではないでしょうか。
確かに言えることは、結局自分が「生きづらい」と感じてしまうことに繋がる「選択をするように洗脳されやすい」ということでしょうか。
これが理解できた人ならば、あとはその洗脳から脱出するするかしないかの選択をするだけではないでしょうか。
少しづずからでもいいと思います。まずはあなた生きづらさを感じさせる呪縛を理解し、日々少しでもそこから脱却して行こうという姿勢が大事なのです。
そういう人が自らを幸福にし、結果的に他をも幸福にし、更に他への理解と受容が蔓延していく。
そういう国になれば、私達は『日本は生きづらい』と言われる日々にもサヨナラできると思っています。
こちらの記事もご覧ください。↓