「人の目が気になる」子供はどう育つか。

「何だか自分の子供が人目が気になって窮屈そうだ」「子供らしく、はつらつとした活気が感じられない」

そんな我が子、あるいは周囲にいる子供を見て心配してしまうのも無理はありません。

今回の記事では、人目を気にする子供の心理、原因について考えてみたいと思います。

何故その子は人目を気にしているのか

たそれはその子が「内気」という内因性を持って生まれてきたからでしょうか。

それも0ではないと思います。でもその内因性というのはどこから作られたのでしょうか。

それは親の遺伝子でしょう。

ですが親の遺伝子は、その更に親から作られたものであり、そこをいくら追及していっても意味がないのでこの記事ではその部分については深く言及しません。

そうではなくて、生まれた後、後天的に身に付いた外因的な要因から、その心理や対処法について考えていきたいとおもいます。

「人の人格は、0~10歳前後に及ぶまでの生活環境や教育によってその大部分が形成される」という事実を踏まえてみると分かるように、そこから理由やヒントを見つけることの方が遥かに有益だと思えるからです。

さて本題に入りたいと思います。

まず大前提としていえることとして、「人の目が気になる」というのは、私達大人も大なり小なり皆そうであるように、子供がそうであっても当たり前のことだといえます。

人間のそんな性質も大きく手伝って、社会秩序は保たれているという側面は蔑ろにできません。

ですから本来「人の目が気になる」ということはある意味で当然であって、さほど神経質に捉える必要はないのですが、これが一定のレベルを強く超えてきたときに、

「生活、更には人生レベルでの大きな損失になりかねない」ということが問題なのです。

それはさておき、「人の目が気になる」という性質が過剰に表れたその子供にとって、それは何が原因となって引き起こさせたものなのでしょうか。

親の教育、躾への態度が子供にもたらす影響力

はっきり言ってこれは揺るぎない大きな要因となり得るでしょう。

もう一段階掘り下げて言うならば、「親の信条、思想、心理状態そのもの」が、子供への教育や躾への態度にダイレクトに表れ、子供はその影響を受けるといっていいでしょう。

例えば親が「人の目が気になる」という性質が強いのであれば言わずもがなですが、その他にも

  • 見栄っ張り
  • 外面がいい
  • 内弁慶である
  • 完璧主義
  • 神経質

これらの性質を極端に持った親のしつけというのは、総じて過保護や過干渉、または無関心なものになる可能性を大きく孕んでおり、子供が自己愛や自尊心を形成する過程になんらかの阻害や歪みを与えてしまいがちです。

その結果、自信がなく「人の目が気になって」オドオドした、または極端に大人しい子供になってしまうかもしれません。

1POINT
大人になる段階で大きく人が変わったように成長する子供もいますが、前述した親による過干渉や過保護な教育とは、大人になってからも「人の目が気になる」という遺産を抱えさせられて生きていく人も少なくないですし、「人の目が気になる」という性質はそんなに残らなくても、心に何等かの影を落としたまま成長し、何らかの生き辛さを抱えてしまう結果に可能性の高さは否定できません。

過保護や過干渉ほどの極端な教育ではないにしても

例えば極端に外面のいい、もしくは内弁慶な態度をとっている親というのも要注意です。

子供はその一貫性や自信のなさを見事に見抜きますし、そういった親に対して子供は少なからず不信感を抱く場合があります。

そうした場合、例えば子供は友達の家に遊びにいっても、友達のお父さんやお母さんをさりげなく観察し、自分の親との比較を始めたりします。

更にはその友達との境遇の比較、子供同士としての立場の比較、、、など他人とあらゆるものを比較するクセが幼少時代から強く身についてしまうというわけです。

その結果、その子供が「人の目が気になる」ようになってしまうというわけです。

世間の「目」に呪縛された親が子にもたらす悪影響

1度ぐらいは言われたことがある人も多いのではないでしょうか。

「世間様に後ろ指を指されないように」「ご近所様に見られたら恥ずかしい」「恥かかないように」

こういった意識も全くないよりは少しはあったほうがいいという意見もあるかも知れません。

ですがそういったことが知らず知らずの内に親の教育の指針となってしまっているとすれば、子供にいい影響だとは言えません。

例えばどういうことかというと、子供と一緒に出掛けたお母さんが、人前で大声をあげて泣きわめきはじめたとします。

このときそれを泣き止ませるのにお母さんが「こんな所でそんなに泣いたら恥ずかしいでしょ」と怒ったとします。

そうすると子供は、「人前で泣くことは『恥ずかしいことだから』ダメなんだ」という認識を持ちます。

これはあくまで例えですから、人前で泣くことが恥ずかしいことであるかはさて置いといて

すなわちその子供にとって「人目のあるところで○○することは恥ずかしいこと」であるかどうか、という価値基準が生まれます。

もちろん恥ずかしいことは恥ずかしいと教えることは大切だと思うのですが、「恥ずかしいかどうか」ということを基軸にするような怒り方が強いものになってしまうと、“恥”という基準に心が強くフォーカスする傾向が強くなってしまい、その結果として子供が人目を気にしやすくなるということがあります。

先ほどの怒り方の例でいえば、「恥ずかしいから」ではなく「人に迷惑がかかるから」というところに怒る基軸があれば、その後の子供の意識に養われる価値基準は前者の場合とは大きく違ったものになるでしょう。

また、「恥ずかしいから」という場合と「迷惑がかかるから」という価値基準の違いには、前者だと恥ずかしい思いをして『自分が』ネガティブな影響を受けることに意識がフォーカスしたものであるのに対し、後者の場合は迷惑をかけて『人に』ネガティブな影響を及ぼすことに意識がフォーカスした内容であることからもわかるように、自分のとった行動が、自分と他人のどちらにネガティブな影響を与えるのかを注視するベクトルが真逆であるということです。

もちろんその両方をきちんと認識はする必要がありますが、「自分が恥ずかしい思いをする」という、自分にネガティブな影響を与えることを喚起する方向性を基軸とした叱り方になると(極端に見栄っ張りな親や世間体を気にする親のしかり方というのはそのようになりやすいです。)、常日頃から「恥をかかないように」という意識が強化され、それは同時に「自分は恥をかくかもしれない」という考えが強まります。

そうすると普段の行動から「これはやっても恥ずかしくないか」「恥をかかないか」ということが物事を決めたり行動する優先度の高い判断基準となり、つまりそれが他人の目を気にした基準と行動パターンを子供の意識に強く刷り込んでしまうわけです。


これは「人の目が気になる」子供へと成長させてしまう原理としては非常に納得がいくものではないでしょうか。

もともと日本人は文化的に「恥」を恐れる気持ちが強いですから、人目を気にする人が多いのです。

ことさら恥を恐れる気持ちが親の気持ちの中にあれば、知らない内にもその親の中に存在するエッセンスが教育や指導、共同生活を通して子供に受け渡されることは当然であります。

「恥を恐れる」という自覚がなくても、例えば極端に「見栄っ張り」だとか「外面がいい」親というのは「あそこの家はちゃんとしていて立派だ」とか「羨ましい家庭」のように思われたくて、結局人の目を気にして故であるので、その奥底にはやはり『恥』に対する根深い恐怖が隠れているものです。

もちろんその恥への恐怖がダメな訳ではありません。

しかしそれが強いと、その親が行う教育というのは、先ほど見たように「人目を気にして」自分の首をしめてしまうような子供へ成長させるような教育になってしまう可能性は高いですし、本来なら例えば「人に迷惑がかかるから」もしくはその他の理由を基軸とした理由で注意することが妥当であるのにも関わらず、「恥ずかしいから」という部分をピックアップして注意をしていることはないでしょうか。

要は人の評価を意識するような言葉を使って教育されているのです。

その他にも小中高大学でもいいのですが、世間体や見栄という部分で言えば「子供を私立の〇〇学校に入れなくちゃ」のように考えて実行してしまう親というのは、あらゆる面においてやはり子供の欲求を無視して親の欲求を押し付けることで満足し、子供の自由意志を奪うというような結果に繋げてしまう傾向は強いと思います。

その為、子供自身が自分にとって大切なもの、好きなこと、興味のあることといったような価値観が分からなくなってしまい、周囲の意見、人からの指示がなければ行動や決定ができない受動型の人間になってしまいかねません。

それはつまり、いつも周囲の人に合わせたり、人の意見や目を介在させた行動、決定しかできなくなってしまい、自分の思うように生きられないということになるかもしれません。

子供の主体性、自立心を養うということ

これは良くいわれることですが、あれやこれやの指示、支配的な親による口出しを受けて育った子どもは、主体性に乏しい、消極的、無気力な子供に育つと言われています。

特に完璧主義な親や、世間体ばかりを気にする親というとは、子供の欲求をねじ伏せ親の要求を押し付け、潜在性や才能の芽を摘むような抑圧的な教育をしがちです。

親的には良かれと思ってやっているのですが、自分の望むようなレールの上に沿って子供の人生を歩ませようと支配的になり、子供がその道から外れる事や、親の意に反することは断固として認めようとしません。

やはり教育とは、「上から」押さえつけて支配的になるようなものではなく、あくまで子供が自身を成長させていく過程でそれを「サポート」していくというスタンスが望ましいのではないかと思います。

「コントロール」と「サポート」の違いで考えるとその違いには明らかなものがあると思います。

あくまで子供には自分の人生の主導権があるのです。

子供はいずれ一人立ちして自分の力で生きていかなければならないわけです。

子供は親の所有物ではありません、立派な人格を持った1つの生命であり、親がいつまでも子供の一生について回って面倒を見る事もできないのです。

子供が一人立ちして社会に出たとき、その子供にとって『本当の意味で役に立つ、そして幸せになっていくための技能、脳力を子供が最大限に伸ばす、その手伝いをしていくこと』が親の役目なのではないかと思うのです。

自分で決めて選んで切り開いていくという実践経験は子供の頃から積み上げておく必要があり、成人した途端に「はいこれからもう大人です」ということになって社会に放り出されても、それでは子供が強く、たくましく、幸福に生きていくことはできないのではないでしょうか。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

子供というのはある意味大人よりも敏感で鋭い感性を持っています。

やはり子供というのは自力だけでは生きていけないということも重々承知している故に、親が支配的になってしまうと、子供自身はその親のコントロールに「従わなければならない」という感覚を強く持つようになっていきます。

もし子供自身が親の指示や要求に従わないと、親に嫌われ、捨てられるかもしれない、それはつまり自分の生命の存続を脅かされるというような感覚を意識的にも無意識的にも持たせてしまうと、子供は親に嫌われないように、好かれようという方向に頑張り出すかもしれません。

ゆえに親の顔色をいつも伺い、その視線に怯えるという習慣は親のみならず外に出て出会う大人、他人、友達、その他あらゆる他人にからの視線を気にする、すなわち「人の目が気になる子供」に育ってしまうとすれば、そこから人生スパンへと広がる弊害はどんなものでしょうか。

親の立場からすると決して好ましいものではないはずです。

親からすれば、ある意味教育熱心であるが故、口うるさかったり、過干渉したり、支配的になってしまうこともあるかも知れません。

でもそれは、果たして本当に子供のことを思った、為になる教育なのか、それとも自分の欲求や思いを満たすために行っている教育に見せかけたものなのかどうか。

例えば親の教育として、「子供が不幸な思いをしないように」「恥をかかないように」「いじめられないように」などの思いから、ネガティブな人生から逃げる、避けさせるようなことを考える言葉があると思います。

でもそうではなくて、「子供が幸せになるように」「周囲をも幸せにできる子供」といった思いで、子供がどうポジティブな人生に向かうのかを親が一緒に考えてあげることが大切なのではないかと思います。

「不幸な人生にならないように」または「幸福な人生を歩むために」

このどちらの視点を持って人生を考えるかというものの間には大きな違いがあります。

「不幸にならないように」と考えているとき、それは間違いなく「不幸」という視点に意識がフォーカスしています。

それは頭のなかで「不幸」という状況やイメージを鮮明に、よりリアルに強化していくことに繋がり、そのイメージを持った脳というのは、イメージ通りの現実を実現させてしまう力として強力に働きます。

これは『逆努力の法則』とも呼ばれており、詳しくは別の記事でも紹介していきたいと思っています。

そう考えると、前の章でも述べてきたように、「子供が恥をかかないように」「恥ずかしいから」という思いに基づいた教育や叱り方よりも、

「子供が幸福になるように」「周囲も幸福する子供」「周囲が気持ちよく感じる振る舞い、言動ができる子供」、そういった思い、そういった“技術”も子供自身に持ってもらうような心掛けを第一とした教育をしていくことが大切であると感じています。

そういう思いで育てられた子供は、過度に「人目が気になる」ということはないでしょう。


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